2023.05.15
人的資本開示の義務化から考える「人事部のためのKPI」
【第1回】“やらされ”開示対応にせず実業務に生かすためのKPI設定
竹森 大起
近年、人事領域における情報開示に注目が集まっている。23年3月期の有価証券報告書からは人的資本に関する開示が義務化され、男女間賃金格差や人材育成方針・社内環境整備方針などの開示が求められるなど、人材に関する情報の可視化・開示の流れが確実に進んでいる。
一方で、ESG投資に端を発するこの人的資本開示の取り組みは「投資家にとってのメリット」という文脈で語られることが多く、実際に実務を進める人事部においては、取り組みの優先度が上がりづらいという声が聞かれる。その背景としては、公表が推奨されている指標についてデータを集計し情報を開示することが、いかに人事部にとって役に立つのかという実感が湧きづらいことにあると考える。また、人事部においてはその業務の性質上、定量的な目標や数値管理が設定されてこなかったことも、取り組みが進みづらい一因として挙げられる。本来、人的資本開示は、経営戦略を踏まえて独自性のある人材戦略を策定し、指標・目標としてのKPI(Key Performance Indicator:重要業績評価指標)を設定して改善を進めるものであり、この機会を効果的に活用すれば人事部にとって有意義な取り組みとなると考えられる。
本稿では、人的資本開示においても推奨される「人事のKPI」設定について、その意義と人事部にとってのメリット、実務担当者への動機づけ方法など、各社の具体例なども交えながら解説したい。
1.人事のKPIとは?
一般的な人事のKPI
人事のKPIとは、人事部が目標達成に向けて定量的な指標を設定し、その指標を基に業務の成果を評価するための尺度のことを指す。具体的には、人事部門が担当する業務や役割に応じて、これまでも以下のような指標が設定されてきた。
表1:人事KPIの例
人的資本経営における人事KPI
昨今、経営環境が急速に変化する中で、持続的に企業価値を向上させるための経営戦略の実現を支える人材への投資が、企業の成長性を評価するポイントとして投資家の注目を集めている。経営戦略と連動した人材戦略をどう実践するかについて述べた「人材版伊藤レポート2.0」においては、重要な人材面の課題について具体的なアクションやKPIを考えることの必要性がまとめられており、特に人事のKPI設定に関して以下のように記載されている。
- 経営戦略実現の障害となる人材面の課題を特定した上で、課題ごとにKPIを用いて、目指すべき姿(To be)の設定と現在の姿(As is)とのギャップの把握を定量的に行うことは、人材戦略が経営戦略と連動しているかを判断し、人材戦略を不断に見直していくために重要である。
人事のKPIに関しては、開示すること自体に注目が集まりがちであるが、重要なことは目指すべき姿に対する現在とのギャップの把握を定量的に行うことである。開示を目的としてKPIの設定をするのではなく、あくまで経営戦略に寄与するために、人事として何を目指すのかという観点でKPIを上手く活用する姿勢が必要となる。
2.人事のKPIを設定すべき理由
KPIの設定が求められるとは言っても、人事業務にはKPI設定は上手く馴染まないと感じる方も多いだろう。確かに、中には適切な指標が当てはまらない業務もあるが、対外的な開示の有無や業務の大小に関わらず、可能な限り人事業務にKPIを設定しようとする姿勢は重要であると筆者は考える。その理由について、人事業務の特性も踏まえて以下に記載する。
(1)仕事の目的が明確になる
1つ目の理由としては、目標達成の指標であるKPIを検討する過程で、仕事の目的が明確になることである。目標を設定して業務を行うのは一見当たり前のように思えるが、人事業務においては、一般的な経営指標からのブレイクダウンでは目標を設定することが難しい。なぜなら人的資本は企業業績に直接的に影響するものではなく、従業員の行動を通じて間接的に影響を与えるものであり、その成果が自然に計測されるものではない。つまり適切なKPIを設けて把握しようとする工夫なくして、成果は上手く測定できないことを意味する。
成果測定について、「人材育成」を例に考える。米国のリーダーシップ研究機関であるロミンガー社の調査によると、人材育成に効果があるのは、「実務経験」が70%、「薫陶*」が20%、「研修」は10%とされている。これは研修が育成にはほとんど役立たないという意味ではなく、研修そのものよりも実務での活用が重要ということである。そのため、研修の効果を測定する際には、研修終了直後のアンケートにおける満足度だけでは効果を十分に測定できているとは言えない。
*ここでは「上司・同僚からのフィードバック/コミュニケーションによって、気づき・行動変容を促すこと」を指す
例えば、ある企業の人事上の重要課題が社員のキャリア自律であるとした場合に、その課題解決に向けて人事として役に立つ研修を提供できているかを測るためには、「キャリア研修を受けて実際に行動が変わったと感じている割合」や「受講者の行動が変わったかという問いに対する上司・部下等の周囲からの肯定回答率」などが測定すべきKPIの候補として挙がる。当然ながら、全ての研修においてこのような対応をするのは工数やコスト面から難しい。また研修の目的が「テーマに興味を持ってもらう」や「知識のインプット」の場合などは、必ずしも同様の測定が必要となるわけではない(この場合、参加人数・アンケートの肯定回答率・理解度テストの点数などがKPIの候補となる。また、重要度によってはわざわざ効果を測定しないという対応も十分に考えられる)。
以下は研修の効果測定に用いられることの多いカークパトリックの4段階評価法であるが、このように研修一つを取ってみても、KPI設定をする際には、どのレベルの効果測定が必要か、またどれだけの手間をかけて成果を把握するのかという意思決定が求められることになる。
図1:研修の効果測定(カークパトリックの4段階評価法)
つまりKPIを決めるということは、重要度や優先順位などを踏まえて何をどこまで実施するのか決めるということを意味しており、KPI設定に向けた議論を経ることで仕事の目的をより明確にすることができる。
(2)業務改廃につながる
2つ目の理由は、KPIを設定することが、人事部門の業務改廃につながるということである。人事施策には、経年単位で変化を見ないと成果が見えてこないものも多い。やり始めて中途半端に終わらせないためにも、いつまでにどのレベルを目標にするのかを明確にして成果を測ることが必要となってくる。その逆に、成果が出ないものを打ち止めにするかの判断をするためにも、その確認は重要となる。特に人事の業務は成果が見えづらいがゆえに、「去年もやったから」という非合理的な理由で施策を継続することが多くある。近年、人的資本経営が重視されていることから、人事の役割は増すとされている。経営における重要事項を担う役割が求められており、業務の高度化、効率化を進める必要がある。そのためには(場合によっては要員投入の必要もあるが)、やるべきことの優先順位を付けず、ただ目の前の課題を優先してしまっていては役割を果たせない。特に人事の世界は「OKR(Objective and Key Result:目標と主な結果)」「ジョブ型」「リスキリング」など次々とバズワードが出てくるため、自社の人事戦略に明確な軸がない場合には、他社の取り組みを見て「自社もやったほうがよさそう」との思いを否定できず、年々業務が増えて組織が疲弊することにも繋がりかねない。明確な方向性を示して業務を集約するためにも、KPIの設定が役に立つのではないだろうか。
図2:これからの人事部の役割
(3)人事部員の能力向上につながる
最後に、個々の人事部員におけるメリット観点での理由を述べる。KPI設定が能力向上と何の関係があるのかと思われるかもしれないが、KPIを設定することは、業務における“成功”と“失敗”を明確にする効果がある。人事業務には、例えば人事制度変更のように、実施した場合としなかった場合の結果が、直接的には比較が難しいものや、またさまざまな人が関わる業務などが多く、人事担当者個人としての業務の成果判定が難しいものが多くある。
マシュー・サイドのベストセラー『失敗の科学』では、失敗から積極的に学ぶことが組織のパフォーマンスを上げると説かれているが、その中で企業の人事担当者は心理療法士や臨床心理士と並んで、訓練や経験が専門的能力の向上に何の影響ももたらさない職種だという研究結果があると紹介されている。
そして、その理由として、これらの職種は仕事が上手くいっているかを判断する基準がなく、間違いを教えてくれるフィードバックがないため、訓練や経験を何年積んでも何も向上せず、暗闇でゴルフの練習を続けているようなものだとも述べられている。この主張はさすがに極論であり、人事業務を経験した筆者としては、人事担当者も経験を通じて能力は向上すると信じている。一方で人事業務において成果を上手く説明できないもどかしさや、反応が分かりづらいことによる手ごたえのなさを感じたことがある人事担当者も多いのではないだろうか。仕事を通じた成長実感やスキルの向上を得られることがますます求められる昨今において、たとえ厳密に数値化できるものではなくとも何らかのKPIを定め、成功・失敗と呼べる成果を定義することが、人事担当者が自身の能力向上を感じ、仕事のやりがいを持つことにつながると考える。
3.人事のKPIの具体例
ここで実際にサステナビリティレポートや統合報告書・有価証券報告書等で公開されている企業の人事KPIを紹介する。冒頭に示した一般的なKPI例に加えて、独自性のある内容を開示している例が多い。
表2:人事のKPIの具体例
例えば、丸井グループでは、社員の約45%(2022年3月期時点)を占める女性社員の活躍を推進するため、2014年3月期より、女性活躍の重点指標として「女性イキイキ指数」を設定している。2022年3月期から26年3月期には、「性別の役割分担意識」の見直しに向けた意識改革・風土づくり面でのKPIを追加するなど、可視化によってさらなる女性の活躍を推進し、意思決定層への女性参画を増やす取り組みをしている。
表3:丸井グループ「女性イキイキ指数」(一部抜粋)
また、村田製作所では、価値創造の中核が「人材」であるとし、「人材の獲得と育成」「エンゲージメント」「多様な人材の活躍」という3つの重要課題に関するアクションと成果指標を整理している。明確な成果指標を設けることで、取るべきアクションが明確になる良い事例だろう。
図3:村田製作所「3つの重要課題に対するアクションと成果指標」(一部抜粋)
4.人事のKPIを効果的に活用していくために
ここまでKPI設定について説明をしてきたが、最後に大切なポイントについて述べる。KPIは設定しただけで形骸化し、忘れ去られてしまう恐れがあることである。指標としてのKPIだけでなく、その大本となる目標自体をすっかり忘れ、翌年には何事もなかったかのように別の目標が設定されるのでは、せっかくKPIを設定しても、その進捗管理や長期的な取り組みの確認としての機能は完全に失われてしまう。目標やKPIが実務において機能するための工夫を以下に示す。
(1)コントロール可能で現実的な指標を設定する
目標が形骸化しやすい状況としては、目標が明確でない、実現可能性が低い、または達成するのがあまりに困難である場合が挙げられる。人的資本が企業業績に影響するのは、直接ではなく間接的な作用による部分が大きいことは先に述べたが、例えば人事のKPIとして業績指標を設けた場合には、人事としての取り組みがどのように影響するのかが分かりづらいことから、忙しい中で時間を割いて施策を打つモチベーションが湧かず、具体的なアクションが実施されづらい。そのため、もう一段分解した形で、人事施策が直接影響を与え得る、コントロール可能な指標を設定することがポイントとなる。また人事部門のリソースを考慮していない壮大な目標を掲げて、実務担当を白けさせてしまうことも避ける必要がある。余力を踏まえた上で、何に注力するのかを明確にする視点が求められるだろう。
(2)進捗が確認できる仕組みを作る
目標に対して時間やエネルギーを費やすためにはコミットメントが重要となるが、そのためには周囲から進捗が見えるようにすることが有効である。好事例として紹介されている企業においても、自社で独自の指標を定め、その進捗状況についてエンゲージメントサーベイ等で定点観測をし、結果を速やかに全社で公開するなどの工夫をしている。そうする(定点観測する)ことで、従業員からのフィードバックや有用なデータが得られ、かつ人事部門の取り組みの周知にもつながる。定期的なデータの計測においては、タレントマネジメントシステム・学習管理システム(LMS:Learning Management System)やBI(Business Intelligence)ツール等を活用したデータ収集の自動化と組み合わせることで、より効果的な人事施策を実施することができる。
(3)担当者ベースでの目標に落とし込む
部や課などの組織として設定した人事のKPIを人事担当者個人の目標に落とし込むことで、実務において機能させることができる。人事のKPIをブレイクダウンした形で、担当する業務に関わるKPIを設定し、権限もセットで与えることで、担当範囲に対する目標と責任の所在が明確になる。ただでさえ人事の定量的なKPIを設定すること自体が難しい中で、それをより細かく分解した担当者レベルの目標設定はより難しいのではないかという意見もあるだろう。実務レベルにおいて、担当業務によってはどうしても数値目標を立てることができない場合がある。その場合は、必ずしも定量的な目標である必要はなく、コメント目標を活用するのも一手だろう。コメント目標とは、例えば「○○の案件について、上司から“よくやった”というコメントがもらえている状態」など、自業務に関わる人からのコメントを仕事の成果の目安にすることである。人事のKPI活用において実務目線で重要なのは、仕事の目的を明確にし、進捗に対する手ごたえを感じるために利用することである。
5.おわりに
これまで人事のKPI設定について、人的資本開示や人事業務へのメリット等を踏まえて述べてきた。人事の重要性や役割が高まる中で日々奮闘されている読者の皆様にとって、本稿が一助になれば幸いである。
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[1]
ProFuture株式会社/HR総研, “HR総研:人事の課題とキャリアに関する調査 結果報告【人事の課題編】”,
https://www.hrpro.co.jp/research_detail.php?r_no=276(参照2023年4月14日) - [2] 経済産業省,“人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書 ~人材版伊藤レポート2.0~”,https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/pdf/report2.0.pdf(参照2023年4月14日)
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[3]
経済産業省,“人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書 ~人材版伊藤レポート2.0~ 実践事例集”,
https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/pdf/report2.0_cases.pdf(参照2023年4月14日) - [4] 金融庁,“記述情報の開示の好事例集2021”,https://www.fsa.go.jp/news/r3/singi/20220204/01.pdf(参照2023年4月14日)
- [5] 金融庁,“記述情報の開示の好事例集2022”,https://www.fsa.go.jp/news/r4/singi/20230131/01.pdf(参照2023年4月14日)
- [6] 丸井グループ,“「多様性」を活かす組織づくり”,https://www.0101maruigroup.co.jp/sustainability/theme02/org_02.html(参照2023年4月14日)
-
[7]
村田製作所,“ムラタの価値創造プロセスと人的資本”,
https://corporate.murata.com/ja-jp/csr/people/hr/capital#id4%EF%BC%88%E5%8F%82%E7%85%A72023(参照2023年4月14日)
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